#4 記憶
今日、僕は何故記憶力が悪く、一部の感情が欠落しているのかを思い出した気がします
皆さんご存知みたいな言い方をしましたが、僕は病的なまでに記憶力が悪いです。
楽しかったことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、悔しかったことも、腹が立ったことも、憎しみや愛さえも
すぐに何でも感情から忘れていきます
感情から忘れ、交わした言葉を忘れ、状況を忘れ、
最後にはその事自体綺麗に忘れます
時折、友人と話していると 過去の自分と友人の間に起きた面白い思い出話なんかを楽しそうに話すのですが
僕は覚えていません
楽しかったことですら忘れてしまいます
これのすごいところが、辛いことや悲しいことがあると
すぐに忘れようとするのか
例えば、文字でのやりとりで聞きたくなかったことを聞いてしまい悲しみを感じると
その瞬間から一気に感情が消えていき、その文章を何度読み返しても何の感情も起きなくなります
すぐに感情が乾いていく感覚に対しての悲しみは残っているので、何とも不思議な感じです
でも、悪いことばかりではありません
一度見た映画をもう一度新鮮な気持ちで見ることが出来たり
音楽や匂いから記憶を想起して 一度経験した物事をまるで他人の記憶でも除いているかのようなジャメヴを体感し、不思議な気分になったりもします。
ジャメヴというのはデジャヴ(既視感)と対になる言葉で、「未視感」と呼ばれる感覚です。
何故だか、多くの言葉は忘れません
きっと、言葉で何かを形容したり、共有することに
大きな意味があることを誰より分かっているんだと思います
過去、僕にはつらい出来事が沢山ありました
もうその時の悲しみや憎しみは覚えていませんが
出来事自体はなんとなく覚えています
人が一生のうちに経験していい災難の限界を超えている気がします
それらの災禍を乗り越えるためには、記憶力を殺し、特定の感情を忘れること以外方法がなかったのかもしれません
他の誰かが僕と同じようにならないために、今日も僕は誰かの命に寄り添うように生きるのでしょう
記憶力がない上、寂しいという感情が希薄なため
時折自分が人間ではなくなった気さえします
ただ
孤独な存在であることだけは理解できます
うん 今日はこの辺で
#3 夜行性の世迷言
こんばんは。
と言っても、僕にとってはおはようございますと言った方が正しいです。
おはようございます。
というのも、本日は中々夜中寝付けず、何度か浅い眠りから目を覚まし、結局夜中の四時頃「今日はもう眠らなくていっか」となり、気付いたら昼過ぎまで活動していました。
具体的に何時頃に寝起きしたかまでは覚えていませんが、目を覚ましたのは深夜に差し掛かる午後十一時頃でした。
いやぁ、ダメ人間の生活だなぁ…。と、思いはするんですけどね
僕にとっては非常によくあることなんですよ。
いわゆる睡眠障害に近いもので、不眠期と過眠期を不定期に繰り返してしまうところがあります。
もちろん、学校や仕事のように、毎日決まった時間に目を覚まし活動を開始し、翌日の起床時間を考慮し入眠する といった、いわゆる「真人間っぽい生活」をしていれば、おのずと起床時間が生活リズムの軸になるのでしょうし、生活リズムのズレなんざ修正しようとせずとも起床時間の軸に即して恒常的なものになるのだと思います。
が、しかし
一方の僕は特に起きる時間や寝る時間を気にせずに過ごしているためか、統計的に見れば一日大体一時間ずつ毎日少しずつ起床時間がズレているように思います。
話は変わりますが、昨日の記事で「根拠の重要性」について話したばかりなのですが、今の時代 込み入った情報であればあるほどに「正確な情報」と「不確かな情報」の違いがイマイチ分からなかったりします。
そういった、「正確な情報かどうか分からない場合」は、僕は「なるほど、こういう考え方もあるのか」程度に受け止めることにしています。
ここから先に書くことには根拠が伴っているともとれるし、そうでないともとれない部分があるはずです。
なので、ここから先を読む前に一度「根拠の重要性」についてはお忘れいただきたいです。
「あぁこんな話あったな」と思い出しながらまとめたものを書き連ねていくので、
「なるほど、そういう考え方も面白いかもなぁ」程度に読んでいただければ幸いです。
まず、この話をする前に みなさんは「夜行性」という言葉を聞いたことがあると思います。
それに伴い、「昼行性」なんて言葉もあります。
我々が普段口にする、あらゆる場面における様々な「普通」には、実はそれぞれに名前がついていたりするから面白いですね。
人間は本来昼行性であり、太陽光により体内分泌される、幸せホルモンと呼ばれる「セロトニン」を生成し、ホルモンバランスを保つと言われています。
要するに、太陽光を浴びることで精神的な安定感を保つことができる機能が備わっている、ということになります。
で、これがまた面白いのですが
現代の人間は「昼行性」
で、人間の祖先達から元々「昼行性」
ですが、これまた一つ前の 人間の祖先のさらに前の祖先までさかのぼると、「夜行性」になるんだそうな。
哺乳類というのは元来夜行性の種族が多く、代表的な理由を一つ挙げるとすれば、
白亜紀では弱肉強食のヒエラルキーにおいて比較的立場の弱かった哺乳類は、恐竜から身を隠しながら生きていくため、昼行性である恐竜が眠る夜間に活動していたからであるという説が有名です。
こうして考えると、「人間は本来夜行性である」も正しいように思いますし、逆の「人間は本来昼行性である」という解釈も間違っているとは思えません。
あらゆる物事の本質は表裏一体であり、どちらか片方に振り切れた解釈のみでは罷り通らない物事が本当にとても多くあります。
もはや、すべての物事がひとえに表裏一体の理を体現しているとさえ思えてしまいます。
余談ですが、近年においては 完全な人間社会を作り上げた現代文明の弊害として、多くの野生の哺乳類たちが たちまち夜行性になっているのだそうです。
人間を脅威とし、夜間に活動する野生動物が増えていることからも、現代人の多くが昼行性であることが分かりますが
かつては恐竜を恐れ夜間に活動していた我々が、現代においてはこうして他の生態系の活動時間を大きく変えてしまう側に立っているとは、何とも皮肉なことですね。
そう思えば、夜行性として生きる夜型人間は、ライフサイクルだけを見れば 人間たちに迫害されてきた野生動物とそう変わらないような存在なのかもしれません。
夜を彷徨うどこかの誰かへ どうか幸せでいてください
今日の一曲「岡部啓一 - 遺サレタ場所/斜光」
#2 言葉の定義を捻じ曲げてから書き始めるブログ記事
突然ですが、僕はとてもバカ舌です。
本来は「味の違いが分からない」という意味で使われるべき表現なのでしょうが、今回は「食事に対する観念が一辺倒」という語義としてこの言葉を使います。
例えばなのですが、
「焼豚だけで腹を満たしたい」とか、
「ブロックのままサーモンにかぶりつきたい」とか。
この間は、さけるチーズを食べながら
「このまま腹が裂けるほどさけるチーズを食べたい」
と、言葉遊びの質も去ることながら非常に質の低い思考にたどり着き、最終的には
「チーズの致死量ってどれくらい?」
と思い、検索してしまうほどのバカ舌です。
そういえば、この間Twitterで「社会不適合者あるある」みたいな導入から箇条書きで
・同じ食べ物ばかり食べる
・飽きるまで同じ曲を聴き続ける
みたいなことをいくつか書き連ねているツイートを目にしました。
なんというか、何らかの根拠はあるのかもしれませんが、根拠をセットにしなければ誤解を招いてしまうことがあるとは思わんのか、とおじさんは憤慨しました。
根拠の重要性ということについても一度話しておきます。
根拠が伴っている場合
「人に説明できる」「正当性を主張できる」
という大きなメリットがあるため、物事を知る際には表面上の解釈だけでなく、何故そんなことが言い切れるのか、まで理解している必要があるわけです。
例えるなら、値札のない服はレジに持っていくな ということです。
皆さん(多分誰も読んでない)も、何かを人に話す時には、「根拠もセットで伝える」ということをゆめゆめお忘れなきよう。
こんな導入はさておき今から全く関係のない話をします。
突然ですが、僕は現代日本が大嫌いです。
表題だけ言ったところで「嫌い度」は推し量れないものなのでしょうが、ここでは敢えて「どれくらい嫌いか」ではなく、今後書いていく記事も含めて「現代日本に対する解釈」のみ書き連ねていきます。
現代人は基本的に言葉を大切にしません。
例を示すとすれば、恋人間の「好き」の交わし合いにおいて、使用頻度が余りにも高すぎるが故に「あぁもう本当にどうしようもなく好きだ!」となった時、その感情の尺度にふさわしい表現がなかなか見つからずに不完全燃焼になってしまうことや
友人間での「死ね」の投げ合いにより、あるべき「死生観」が軽くなってしまい、人の命に伴う本質的な理解が持てず、そういった言葉の乱用による倫理観のズレが世代ごとに生まれてしまうことが挙げられます。
簡単に言えば「命に対する軽視の根源」って感じです。
こうして考えると、現代って悪い言葉ばかり目にしませんか?否定や悪口や攻撃、なんというか アグレッシブな人が多い気がします。
本当は昔からそうだったのかもしれませんが、匿名で安易に人を傷つけてしまうことのできる現代だからこそ、抑圧され続けてきた国単位のリビドーが社会規模であふれ出しているのかもしれませんね。
あらゆる皮肉や風刺が飽和し、どんな斜に構えた意見もどこかで聞いたことのあるような受け売りばかりで、
最初に誰が何についてどんな思いで放った言論だったのかすら、きっと彼らは分からないまま 受け売りとさえ思わずに
誰かの意見を模倣した言葉で自らを着飾っているように見えます。
そんな時代だからこそ、他の誰にも似合わない言葉や信念を持って生きてほしいです。
大それた言葉に聞こえるかもしれませんがつまり何が言いたいのか、というと
悪口や皮肉なんざ誰かが噛み終えて味のなくなったガムも同然なわけで、他人のガムを噛むくらいなら新しいガムを噛み始める勇気を持とうな、ということです。
なので僕は、独自の笑いのセンスを曲げずに貫き 剰え共有しようとさえするような「笑いにストイックな人」がとても好きなんですよ。
ブスは整形だ化粧だ美容だダイエットだと宣う前にウィットに富んでくれ、ということです。
今回は僕自身の過去のツイートを推敲しまとめて書いてみました。自分の認識・思想を再認識するということの意義を改めて感じることができました。
さけるチーズを食べたくなってきたので、今回はここまでにしておきます。
今日の一曲「→Pia-no-jaC← - ワルキューレの騎行」
#1 思考保存はじめました
初めまして。
記念すべき、というとまた語弊がある表現ですが、今後継続的に考えを述べ、まとめ、残しておく場所として活用するこの場所で連ねる最初の文章を何にすべきか、と悩みましたが
その悩める思考そのものをそのまま書くことにしました。
と、書くことにしたため このような導入から話を始めます。
いきなりなんなんだ、と思われることを承知で書きますが。常日頃より僕にはこういうところがあります。
「敢えて」という表現がありますが、何かに迷った時、敢えて「迷っているという現状」を有る物とし扱います。
つまり、「何を書くか悩む」の場合、「書くテーマ」を考えてから書き始めるのがセオリーなのでしょうが、僕の場合は「何を書くか悩んでいることをそのまま書く」という手法を使いがちです。
IDも「IDkimenakya」から始めようとしたのですが、登録の失敗により幻のIDとなってしまいました。
が、こうして文章を書くきっかけの一つとして活かすことができたのでよしとします。
前述で「無い物を有る物として扱う」と表現しましたが、
「虚無は本質的な無ではなく、認識できる"無"が"有る状態"」
みたいな解釈を本や映画、漫画やSNSなんかで時折見聞きします。
こういった表現って、ある種斜に構えているというか、多角的な評論のうちで最も変則的なものをあげた場合の思考 だと思うんですよね。
ただ、現代の日本においては、こうした「斜に構えてそうな文章」を目にすることが余りに多く、今こうしてブログを書いている僕の指にもまとわりついているであろう現代の日本に巣食う闇を感じずにはいられません。
本題がないままここまで書きましたが、本題がないままでも物語を派生させていくこの即興劇のような書き方、僕はとても好きなんです。
何かを考えて書こうとすると、あらゆる可能性や多様性に気圧されて、結局最終的には最もベーシックなフォーマットを自ら選んでしまい、自分で愛すことのできない恙ない文章構成に落ち着いてしまいがちなのです。
簡単に言えば、「他者評価を気にしてそうな文章」を書いてしまうんです。
もちろん、構文において「読み手に分かりやすく、それでいて具体的にまとめる力」というものは非常に大切で、非常に大切どころかもはや必要最低限のファクターである気さえします。
ですが、「俺は一体今何を書こうとしているんだ」が分からないまま筆を走らせる(この場合タイピングなので筆は走っていない)ことで、非常にフラットな環境で文章をしたためることができるわけです。
こんな独り善がりの文章を誰が読むわけでもないと思うと急にエッチなことでも言いたくなるものですが、やめておきます。
本題ですが、僕がこうしてブログを書き始めたことにはもちろんきっかけがあります。
兼ねてより仲良くしてくれている十九歳の秀才の友人がいるのですが、年齢の割にはあまりにも切れ者で視野が広いため、自身の思考に首を絞められていることもあるようで。
そういった混濁した思考をとりわけ具体的にするわけでもなく、ある種の象徴化を図って文章にして残すようなブログを書いていることを伝えてくれました。
それを拝見した時に、「あぁ、なるほど こうして思考をまとめておく方法があるのか」と非常に感心し、本人に真似をしたいと伝えてこの記事を書くに至ったわけです。
誰かに宛てたようなこの書き方に意味を見出せなくなり始めるボリュームに差し掛かってきたことですし、この記事はこの辺でやめておきます。
追記:基本的に音楽を聴きながらブログを書いているので、今後の記事でもその記事を書きながら聞いていた曲を最後に書くことにします。
今日の一曲「DJ Okawari - カノン(Pachelbel's Canon)」