#11 Twitterの話と人との距離感の話

 タイトルどころか書きたいことすら特にないまま書き始めました

 

こんにちは、僕です

 

先日、思うところがあってアクティブに使っていた唯一のTwitterアカウントを

削除しました。

 

やはり、知り合いに読まれている前提で書ける文章は外行きの文章で

本当に思ったままを書けていたわけではなくて

むしろ、SNSは本来知り合いに読まれている前提で使うものなのかもしれませんが

なんとなく、窮屈さを感じ続けてきました

 

結局なんだかんだというか案の定というか、今回もアカウント削除してしまい

「次こそは思いついたままのことを、誰の目も気にせずに書き殴りたい」

という心持ちで、心機一転アカウントを作り直しました。

 

知り合いには教えず、かといって鍵垢にしてしまっては閉鎖的なままなので

オープンアカウントのまま好き勝手思ったことを書いたり書かなかったりしています

 

ここのところ、友人と連絡を取っていると「何の話だよ」と

自分の書いた文章や、自分がふっかけたやりとりを読み返している時に

感じてしまうことが多くなりました

 

人との距離感というものは難しいもので、

さらに「適切な距離感を維持しなければ」であったり

「距離感を読み誤って、嫌われたり違和感を感じられたら悲しいな」であったり

そういった懸念から、人とやりとりをする上で、どうしても

自分の発言に細心の注意を払ってしまいます。

 

それが特別仲の良い友人であれ、普通の友人であれ、同性であれ異性であれ

細かな理由は違えど、一概に肩肘を張ってしまいます

 

心のどこかで、「相手にとっての自分」という、相手から抱かれる印象について

よく思われたい気持ちはあれど、それ以上に嫌われたくない 違和感を与えたくない

そういったマイナス面での気持ちが強く

多くを語らないように あくまで聞き手側に回るように そういったことを

良くも悪くも、常々意識してしまっている気がします。

 

なので、流れがあれどなかれど 自分側から自分のことを多弁に語ってしまうと

内容がどうだとか、構文がどうだとか、言い回しがどうだとか

色んな理由で自分の文章に気持ち悪さみたいなものを感じてしまい

「ああ、やっぱりペラペラと喋らない方が良かったなぁ」と

後悔してしまいます

 

距離感を保ちたい理由は

「自分にとってその人との距離感は今のままが適切だから」

ではなく

 

「相手にとって自分との距離感はこうであるべきであろう」

という、相手本位の尺度を勝手に想定して、勝手に維持しようとする一面と

 

「本当はもっと踏み込んだ関係になりたいけど、それを望んだせいで嫌われたり、そこまでいかずとも良くない印象を与えてしまいたくない」

という、程度の低い保身のような一面の二つがある気がします。

 

 

Twitterだと140文字の制約があまりにも窮屈で、基本的にこのブログを使う時は

 

Twitterに何かを書きたい→書き始める→書き始めたら止まらない→連投みたいになってしまって変だ→だったらまとめて書き殴れる場所を選んだほうが良い

 

といった流れが多い気がします。

 

なんだか、すごく孤独です

 

結局僕は最後まで孤独なままなのでしょうか

 

諦めきれないのかな 孤独に生きてそのまま死んでいく覚悟を決めてしまったほうが

楽なのかもしれないよ

 

今日の一曲「karen-o/the moon song」

#10 文章を書きたいというだけの理由で書き始めた記事

こんにちは

 

便宜上、読者がいるという体裁をとってしたためてきたこのブログですが、

先日改めて自分の書いた文章を読んでいて、

なんというか「薄気味悪さ」みたいなものを感じました。

 

ただ、

読み手として扱う文章としては独り善がりな書き方のほうが読みやすくとも

書き手として扱う文章は「聞き手がいる前提で語り手としてのスタンスを取る」

みたいなやり方を取ったほうが書きやすいんじゃないかな〜

なんて思いました。

 

これまでの記事においては、こういった前書き的な文章を恣意的に書き殴っている間

「何か文章に書き起こしたい事柄があったのではないか?」

と脳内をてくてく歩き回って探索していたわけですが

 

前回の更新からあまりに期間が空きすぎたこと

空白の期間中に起きた出来事の一つ一つの質量が大きすぎること

 

この二点により、今回に関しては「何を書こうかな」というよりも「どれを書こうかな」といった印象に近いです。

 

そして、試しに改行を多用しつつ書き始めて見ましたが

結構読みやすいですね。

今後はこういったフォーマットを意識していこうと思います。

 

というのも、思考保存というブログの名前にそぐわぬ内容が散見されるものの

一応「備忘録的役割」を持ったブログとして始めたものなので

なんだかんだ、自分ひとりで読み返すことこそが本分といったところなのですが

いかんせん、句読点のみならず改行がなければ読みづらい部分が多々あったなと思い

今後読み返すであろう、未来の自分が読みやすいようにしよう

といった、ぼんやりとした考えが浮かんでこうしてみたわけです。

 

 

 

・・・とかなんか書いているうちにLINEのやり取りが忙しくなって

 

 

 

・・・と、上の文章を入力してから数時間が経過し、現在午前4時・・・。

LINEで友人と会話し散らかしているうちに「文章を書きたい」という欲求は無事に満たされてしまったのですが

中途半端ではありますが、せっかく書いたので 備忘録的な意味で投稿しておきます

 

それでは、また・・・

 

今日の音楽「いろいろ」

#9 webライターの採用試験を受けた話

昨日ぶりの更新です。

半年以上の沈黙を破り、ここにきて急に二日連続の更新になります。

前回のブログ記事をきっかけに執筆(笑)への情熱が再燃したのかもしれません。

 

ということで、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

ご存知の通り、僕は文章を書くのがとても好きです。

そして、文章を書くのが割と得意です。

 

「好きこそ物の上手なれ」

 

といった慣用句があるわけですが、

今までは、この慣用句こそ

「僕の持つ"文章"というものに対する印象そのもの」

と言える気がしていました。

 

何を隠そう、僕はとにかく文章を書くのが大好きで、仕事や学業においてもそうだったように、それらと全く関連のない機会においても、これまで幾度となく好き好んで長い文章や短い文章、おもしろテキストや小難しい論文めいたものなんかを数多くしたためてきました。

 

これだけ好きで、ある程度の経験があるのだから、少なくとも僕は

「文章力がある側の人間」だと、確信してきました。

 

 

これね、どうやら違ったぽい。

 

 

というのも、つい今日 というか、ついさっきのことです。

先日「ライター募集」の採用情報をネットで目にした僕は

「ほ~~ん、文章を書くことを仕事に出来たら最高やな」

と思い、さらに自信が自惚れである可能性を一切疑わない僕は

「俺ほどの構文力があれば、こんなん余裕やろ」と

 

不合格の一言を目にする可能性など微塵も考えず、届いた採用試験用オンラインテストのリンクをおもむろに開いたわけです。

 

カチッ

 

20分の制限時間があるとのことで、煙草を一本吸い終え

お茶を一口、もう一口と飲み

息を整え、背筋を伸ばし

オンラインテスト用のページが表示されたPCディスプレイの前で「よし」と、小さな声を漏らし

覚悟を決め、テストページのリンクをクリックしました。

 

カチッ

 

 

 

 

 

11点中、2点でした。

 

 

 

 

 

いや、嘘でしょ。

 

えっ マジ?

 

 

 

というのも、全11問ある問題ごとに4つ~5つの文章パターンが用意されており

この中から正しい文章をすべて選択しなさい系だったわけです。

 

常日頃より細かい言葉の使い方に神経質な僕としては

「勝ったな」

と、一問目を目にした段階で 傲慢にも合格を確信したのです。

制限時間20分の内、9分~10分ほどで回答を終え、

「これはさすがに勝ち確ですわ」と思い、

何の躊躇もなくテストの結果表示をクリックしたわけです。

 

で、11点中、2点よ。

 

"負け惜しみ"みたいなものでしょうが、正直「は?」といった気持ちが強かったです。

 

今回の自惚れイキリ戦犯を通じて

僕の思う「違和感のある変な日本語」と

物書きを仕事にする上での「違和感のある変な日本語」は

大きく違っているように感じました。

 

というか、なんだか一般的な生活で言葉に触れる上での「違和感のある変な日本語」のボーダーラインとはまた違って

物書きを仕事にする上での「違和感のある変な日本語」っていうのは、なんかまた違う基準なのかなと思いました。

 

言い方はかなり皮肉っぽくなりますが

「書かされて文章を書く立場の人間としてのフォーマットが決まっている」

「表現力や構文力ではなく、企業側が正しいとする表現に近い人間かどうかのテスト」

といった印象を受けました。

 

 

「私は小説家だが、小説家でさえも、自分が書きたいことを書きたいように書いているのではなく、多くの小説家は学校の教室で模範答案を書くように書いているように見える。」(引用元:E・S・モースの「日本その日その日1」)

 

 

なんだか、まさにコレだな と思いました。

 

これまた"負け犬の遠吠え"っぽいテキストになってしまいましたが、認めます。

負け犬的にはこう感じたわけです。

 

これ、「僕が違和感を感じていた表現は、実は正しい日本語なんです」なら

あぁ、そうなんだ…。と、なんとなく納得できる気がします。

 

が、「僕が違和感のない正しい表現と思っていた日本語が実は変な日本語でした」

という可能性も全否定はできません。

 

現に、僕はよく彼女から「ら抜き言葉」を指摘されます。

「寝られない」ではなく「寝れない」

「食べられる」ではなく「食べれる」

こんなもん、口語表現としてであって"誤用"とは違うでしょ!

と、ら抜き言葉もら入り言葉も どちらも正しいものだと

なんとなく、「自分が間違っている」と感じたことはなく

「慣用的な表現の違い」程度の問題だ、と かなり軽く受け止めてきました。

 

が、11点中2点の男ですから、これはいよいよ僕が間違っていた気がします。

 

今までの人生でしたためてきたすべての文章が「11点中2点」だったとすれば

僕は今後、日本語を扱う事自体怖くてできなくなるかもしれません。

 

11点中2点の文章力だと思うと、急に文章をしたためるのがとても億劫になりました。

ひょっとすると、読む人が読めば僕の文章ってメチャクチャな日本語だらけで、読めたもんじゃないのかもしれない…。

 

ひょっとすると、このブログ記事も…。

 

これ以上書き連ねると"負け犬の自覚"が生まれてしまう気がするので今日はこの辺で。

 

今日の一曲「」

#8 彼女が出来ました

さて、書こうと思い立ったはいいものの…どうしたものか。

僕は今、自分の頭の中にある回廊をウロウロしています。

 

というのも、当ブログを開設したきっかけについては以前の記事で詳らかに触れた気がするので割愛するとして、

 

これ、どういうフォーマットで書いてたっけ…?

 

前回の記事の更新が2019年の1月だったということは、半年以上が経過しているわけです。

 

僕ももうそろそろいい歳なので

「学生時代に部活で経験して以降、長らく離れていた剣道であっても、一度防具を身に着け竹刀を握れば感覚がなんとなく戻ってくる的なモン」

は、オッサンになってから始めた当ブログにおいては、んなモンねーわけです。

 

一貫されたフォーマットについて考え始めると妙なこだわりが出てしまい、逆にブログを使えなくなってしまう気がします。

なので、今後はタイトルのフォーマットのみ引き継いで、本文に関してはその日の気分に任せて自由に書こうと思います。

 

さて、久しぶりすぎて前置きが長くなりましたが、そろそろちゃんと書き始めます。

 

先日、彼女が出来ました。

 

馴れ初めや惚気みたいなものは書きません。

(それはこちらで個人的にやっておきます。)

 

何も、彼女が出来た喜びをここにぶつけたいわけではありませんし

彼女について書くわけでもありません。

そうです。この記事で「僕の彼女にまつわるエピソード」は一切登場しません。

 

じゃあこの記事は一体何を書くために書き始めたんだよ だって?

彼女が出来て、改めて「交際相手がいる現状」だからこそ思い至ったことというか、考えがまとまったことをここに書いておこうと思い至り

久々にこのサイトのログインフォームをノックしたわけです。

コンコン

 

じゃあ何故このタイトルにしたのか だって?

そりゃあね。嬉しいからです。

 

今この記事を書いている僕にとって一番印象的なフレーズをタイトルに据えて満を持して書き始めた方が、僕的にモチベーションが書き終えるまで維持できるのです。

 

とまあ、二度目の前置きを挟んだところで今度こそ書き始めます。

 

あっ、ちょっと待ってください。

 

タイミングとしてはギリギリすぎる注意書きですが、

今回は、正解か不正解か、明暗を分ける必要のないテーマを扱います。

これより先の文章は、あくまでも自分の主義や、それによる恋愛観を語る文章なので、読む人によっては間違いだらけの駄文と感じられる可能性が普通にあります。

これから読んでもらう文章には、一部対立意見を想定した論調の部分もありますが、

結局書きたいことは「僕が思う"恋愛"というのはこういうのだ!」ってだけなので

気張らずに読んでください。

「この人はこういう主義で、こういう主義としての考え方はこういう感じか~」

程度に受け止めてください。

 

 

 

 

 

…大丈夫かな?書き始めても平気かな?

と、本日三度目の前置きが無事に終わりましたので、マジで書き始めます。

 

 

 

 

 

 

異性と付き合うということは、当然

「結婚を視野に入れることのできる、先見的な関係」

であるべきだと思うし、刹那主義的な"恋愛ごっこ"の延長に

「彼氏彼女」

という、ある種おおげさな肩書を与える事ほど無粋かつ無責任で自己中心的な娯楽はないだろう

と考える主義なんだけど、これについてちょっと書いておきたい

 

これは、先程送信した僕自身のツイートです。

(文字数制限がなくなったのでブログ用にちょっと書き直しました)

 

140文字の制約を気にして書くにはもったいないテーマだなと思い、改めてブログ記事として書き始めたので、ツイートは削除しておきました。

 

ここからは上記ツイート(故)の続きになります。

 

僕の価値観において、恋愛関係というのは、"付き合う"に収まらない、もっと本質的かつ非常に大きなテーマだと感じるわけです。

 

よく「恋愛と結婚は別」なんてフレーズを見聞きしますが、バカこけー!と毎度思います。

 

まあ、言いたいことは分かりますけどね。

 

対立派の僕は「恋愛は結婚に至るまでのプロセス」だと思うわけです。

言い切ってしまえば、「結婚しないなら付き合わない」という主義なわけです。

 

まあね。「恋愛と結婚は別」っていう考え方も分かるのよ。分かるんだけどね。

 

でも、この考え方の違いにおいて僕は

「じゃあ、おたくらの考える"結婚に繋がらない恋愛関係"って、必要か?」

と、どうしても批判的な感想を抱いてしまいます。

 

ザックリ言ってしまえば、結婚に繋がらない交際関係なんて

肩書があるセフレか、肩書がないセフレか 程度の違いしかなくない?というか

相手に対する所有欲を満たすために"彼氏彼女"の肩書を互いに振りかざして

自分にとって心地の良い関係のためにお互いを縛り合うための口実なんじゃねーの?というか

腹の底で蠢く黒い欲求を隠すために肩書を間借りしているだけに見えちゃいます。

 

または、ノーセックスでデートや趣味の時間の共有なんかをする間柄であっても

いや、友達でええやん。肩書がなきゃ出来ない事じゃないやん。

と思うわけです。

 

「彼氏がいる自分」「彼女がいる自分」という

肩書依存のアイデンティティで、空っぽの自分を虚構の自尊心で満たそうとするパターンは、ひょっとすると一番ヤバいかもしれません。

 

僕は結婚に繋がる可能性のない、或いは結婚に繋げる気のないような、

"プロセス"ではなく"結果"としての恋愛関係なんざ必要ないと考える主義なので

 

「可愛い!タイプだ!付き合いたい!」とか

「趣味が合う!話も合う!付き合いたい!」とか

「優しい!一緒にいて楽しい!付き合いたい!」とか

「エッチしたい!付き合いたい!」とか

「好きな人に他の人が干渉することが許せない!から付き合いたい!」とか

「寂しい!誰かと一緒にいたい!一緒にいるならあの人が良い!付き合いたい!」とか

あと、

「大切にされたい!この人なら大切にしてくれるかも!じゃあ付き合いたい!」みてーなの。

 

こういうのだけで交際関係に踏み切っちゃうのって、本当に意味あるのかなぁと

疑問を感じてしまいます。

 

見方を変えれば、「自分の交際相手」と「自分の配偶者」に求めるものがそもそも違うという方が多いのかな~という印象を受けますが、僕の場合は

 

自分の交際相手 ⇒ 自分の配偶者 ⇒ 自分達の子供にとっての親

 

と考えています。

 

互いに先を考えていない交際の場合、配偶者としての素質や親としての素質なんざ気にせずにエッチできるでしょうから、それはそれとして割り切って恋愛を楽しむ方がいること自体は理解できます。

 

が、僕の場合はどうしても "親密"のボーダーラインを超えるのであれば、尚更先見性を持った考え方を持たなければ、相手に対しても失礼だなと感じてしまいます。

 

そして、その"先見性"が指し示す区切りのいい地点とは一体どこなんだ、と言えば

そりゃ、結婚です。

さらに言えば僕は子供が大好きなので、出来る事なら子供を授かりたいと考えるタイプです。

なので、剰え交際相手には「親としての素質」も求めてしまいます。

 

そして、そうなると「親としての素質」とはなんぞや、ということになりますが

要するに、"真っ当な人間性と、器の広さ"です。

人としての真っすぐさや本質的な相性を掘り下げていった時、突き当たるものの一つが「親としての素質」だと思うので、今回はこのフレーズを使います。

 

そもそも、その子にとってどんな親が最も好ましいか、なんて

んなもんは子供が実際に産まれてきてからでなければ分かりようがありませんし、

実際に産まれてきても分からないかもしれません。

あくまでも「突き当たるものの一つ」としての表現だからね!

 

要するに僕は、掘り下げた時に真っ当な親としての姿をイメージできるかどうか という点で、恋愛として果たしてその人と本当に付き合いたいのかどうか、を考える主義なわけです。

僕は「関係の先を見据え、さらに掘り下げた上で"この人とずっと一緒にいたい"と思った人とだけ結婚を視野に入れた上で付き合いたい」わけです。

 

いや、重。

 

なんというか、自分の主義や価値観ってちょっとマジメ過ぎてるというか、

ストイック過ぎてるという自覚はぶっちゃけ大いにあります。

 

なので、本当は昔からこういう主義でしたが、マジメ過ぎちゃうと誰とも恋愛できなくなるので、過去の恋愛すべてがストイックだったかと言えばそんなことはないです。

 

むしろ、これまでの恋愛においてはそういう「本当の自分のスタンス」を隠して、というか あえて開示せずに相手の様子をうかがうような恋愛ばかりしてきました。

 恋愛を楽しむというよりは、恋愛の相手として適格なのかどうかを常に査定している感じで、信じる事よりも疑う事がメインテーマの恋愛というか。

疑う余地がなくなるまで突き詰めて、最後に納得できたら安心し~ちゃお!と思っていたんでしょうが、毎度ひどい裏切られ方をされ、余計に疑う事をメインテーマにしがちな半生だったかもしれません。

 

ぶっちゃけ今振り返るとあんなもんは恋愛じゃなかったです。

やたら距離感の近い人間観察でした。

 

そういう意味では、今の彼女との恋愛が 本質的な意味で言えば

最初なのかもしれません。

 

僕が付き合っている彼女は、人間性がマジで最強です。

驕ることのないまっすぐな正義感や考え方がマジで好きです。

(他にも好きなところは沢山ありますが、それはこちらで個人的にやっておきます。)

 

僕の「最後の最後に信頼できる人間かどうか」という名目における、そりゃもう厳しい監査をくぐり抜けてしまった僕の彼女には、どうあっても僕と結婚してもらいます。

 

し、今後彼女が僕以外の方との新しい恋愛関係を築く可能性をすべて僕一人でかっさらう以上は、

僕も相応に、彼女にとっての「最後の最後に信頼できる人間」でありたいと強く思いました。

 

いやあ、それにしても彼女がいるっていいですね。

身が引き締まる思いもありつつ、気を抜ける安心感もありつつ。

…と、なんだか惚気が始まりそうですし、驚異の4000文字台に突入しちゃってるので、さすがにこの辺で一旦書き納めましょう。

 

ちょっと書いておきたい」だと?

ちょっとちゃうやんけ!!

 

追記:「僕の彼女にまつわるエピソード」、登場してたね!スマン!

 

今日の一曲「竹内まりや - Plastic Love」他

#7 良薬は甘くあるべきなのか?

「良薬は口に苦し」

ということわざがあるが、現代の若者たちは良薬とみなす定義として

 

「苦くないこと」

 

が挙げられるような気がするわけだ。

 

本末転倒というか、甘ったれてんなぁと思いましたね。

多くの大人たちが良薬を食べやすいように甘く味付けしてあげちゃうから

こうなってるのかもしれんなぁ

現代。

#6 一足早いメリークリスマス

前回の続きから書く予定でしたが、あまり面白い文章が書けそうにないので、やめました。

 

そもそも誰も読んでいないであろうこのブログにおいて、居もしない読者に向けての気遣いなんざ本当に必要なのか?とも思いますが

 

あくまでもブログという形式を取っている以上は、フォーマットは崩せません。

 

気遣いの必要性というより、ブログたる所以を崩してしまえば、後々まとまりの悪いブログになってしまいそうだからです。

 

訳の分からない導入ですね。

 

時にはこんな恣意的な構文も悪くないかもしれませんね。

 

悪いか

 

なんと言いますかね 僕はもう疲れました

 

どうせ明日も明後日も 来年になっても生き方は変わらないのでしょうがね

 

とにかく 今は疲れたのです

 

人の為に命を尽くすとは なんなんでしょうね

 

本当は幸せになるのが下手なだけで、

自分が嫌っている俗世の人々と同一視されたくないが故に、気張ったアイデンティティ振りかざして胸を張りたいだけなのかもしれません

 

本当は幸せになってもいいのかもしれません

 

でも、そう思うたびに悉く身を引き裂かれるような思いをするのが毎回の定番オチなので

 

もはや自分が何者なのかさえ 最近はよく分からなくなりかけています

 

非常にゆゆしき問題です

 

明日の俺よ

 

今日よりも明日 人を愛せるよう生きなさい

 

人の幸せの為尽くしなさい

 

それが唯一の救いなのよ

 

明日以降の日本よ

 

人に愛されたら、愛された分だけ心を豊かになさい

 

豊かになった心を以て、人々を同じように愛し、優しくなさい

 

人々の愛や優しさ、温かさが広がって

 

きっと世界は平和になると祈りながら命を燃やしなさい

 

きっとみんながそうなら怖くない

 

 

 

 

 

 

 

あっ、メリークリスマス。

 

今日の一曲「」

 

 

#5 走り始めてからどこに向かうかを考え始めるブログ記事

こうしてブログを書き始める一時間程前に

「そうだ、これをブログに書き残しておこう」

と思い立ったのですが、持ち前の記憶力の悪さで何を書こうとしていたのか忘れました。

 

ということで、こんばんは。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

僕ですか?僕は今日とてタイトルを付けるには取るに足らぬ程度の一日を過ごしておりました。

 

明日からMHWの歴戦王マム・タロトのクエスト「狂乱のエルドラド」が開催されるので、とてもワクワクしています。

 

MHシリーズのクエスト名って中々に拗らせていながらも諧謔に富んだ表現が多くて、クエスト名を読み世界観と重ねるだけでも楽しいです。

 

こうして文字を連ねているとあらゆる方面に思考が及び、書きたいことが浮かびは消え、浮かびは消えていきます。

 

ちょうど「煙霞」のように。

 

ということで、ブログのタイトルを「煙霞」にしようとしたのですが、あまりにもイタすぎるので今回はやめておきます。

 

先述のように僕は、一つの物事に思考を巡らせると、そこから枝が伸びるように様々な思考に分岐するのですが、すぐに忘れてしまいます。刹那的な閃きが後に役立つこともあったのでしょうが、体感で99%忘れています。

 

それら一つ一つの思考がもったいないからブログを書き始めたつもりが、「長くなってしまうな」と言った誰宛かも定かではない懸念から一つにテーマを絞ろうとしてしまいます。

 

社会においては、こうした構文における簡潔さや思考における意思決定力は良しとされるものなのでしょうが、「思考保存」の名においてブログを書き始めた僕としては なんだか目的に沿っていないように思えて仕方がありません。

 

かと言って、いつか自分が読み返した際に

「うわぁ、なんだこの恣意的な怪文書は…」

となってしまっては、それこそ本末転倒です。

 

ということで、本日も先日お話しした「思ったことをそのまま書き殴り始める論法」で始めましたが、書き始めた文章の方に夢中になってしまい、

冒頭に書いた「そうだ、これをブログに書き残しておこう」が何だったかは思い出せませんでした。

 

それはそうと、僕には文章を綴る時のクセというか、傾向があります。

 

文章を書き終える前に何度も頭から最後に書いた部分までを読み返し、

・適切な表現への書き換え

・余分な部分の削除

・補足できそうなポイントの加筆

・その事柄について掘り下げられそうなポイントの加筆

・ねじれ文になっていないかの見直し

これらの為にペンを握り直します。(タイピングなのでペンは握っていない)

 

この見直しと修正は、いわゆる、「推敲(すいこう)」というやつです。

 

当ブログの過去記事全てにも同じ事が言えて、最初に書き終えた段階のまま公開したものは一つもありません。

 

出来るだけ詳しく具体的に描写できないものか、と考えてしまいます。

 

「凝り性」の一言で片付いてしまいそうなコレですが、ブログの方針を固めるためにも敢えて詳らかに書かせて頂きました。

 

できるだけ余すことなく思考の全てをこの場に残し、

いつか過去となるこの瞬間を、今これを書いている"現在の自分"としての責務を果たすために、"これを読んでいる未来の自分"のために、現在の自分が未来の自分に残せるものはすべて残したいです。

 

が、記憶力が悪いのでブログを書き始めている段階ですでにあらゆる思考が浮かび、そして消えて行ってしまいました。

 

実際に他人の記憶力を体感したわけでもないのに「記憶力が悪いです」と断言するのって、なんとなくとても視野の狭い批評に思えて仕方がありませんが、周囲の人間を観察・分析した上で相対的な評価が成立した以上は「記憶力が悪いです」と断言しても過言ではないようにも思います。

 

記憶力が悪いが故に、唐突に「あぁ、こんなことあったな」と思い出す事も時折あるのですが、大半が何故か「嫌な思いをした出来事」です。

 

せっかくなので、今回はそのうちの一つをお話しておきます。

 

 

 

僕は大学で心理学を専攻していたのですが、自己実現の為に自己像を明らかにしておく、という現代人にとってはかなり酷な心理テストの演習がありました。

 

具体的な内容は

「自分を何かに例えるとすれば何か、そして何故そう思うか」

を書くことと

「講義室にいる全員が自分の名前を紙に記し、記名した紙をシャッフルし、ランダムに手元に届いた他の人の紙に、『その人が動物で言えば何に似ているか』を書く」

というものでした。

 

つまり

僕が引いたAさんの紙に「犬」と書いている最中に

AさんはAさんが引いたBさんの紙に「猫」と書いていて、

講義室の誰かが引いた僕の紙にも「何かの動物の名前」を書いている

ということです。

そして、各々記入が終わり次第教授がすべての紙を回収し、

自分の名前が書いてある紙をそれぞれ教授から返されて、

この講義室にいる誰かが書いた自分に対する印象を目の当たりにする

というロールプレイ形式です。

 

僕は自己イメージを書く際に

「自意識過剰と思われるのはイヤだが、恙ない自己形容で「ウッワ、置きに行ったな」なんて思われるのはもっとイヤ」

という、客観的評価を気にしたプライドに縛られたような思案から始まり、

最終的には「特徴から解釈し、類似した概念に当てはめよう」と思い至り、結果

 

「煙」

 

と書いたんですよ。

 

え、イタくないですか??

僕はついさっきこれを唐突に思い出し赤っ恥だなと思いました。

 

何故そう思うか、の項目には

・度が過ぎるマイペース

・神出鬼没

・つかみどころがない

と書いた気がします。

当時の僕は、こういった自己像の解釈から煙を連想したらしいです。

 

え、イタくないですか??

 

文字数が2000文字を超えたことですし、続きは次回にとっておきます。

中途半端な締め括りにはなりますが、本日はこの辺で。

 

今日の一曲「」